名古屋布教と幅下教会設立
- 明治20年10月
-
金光教難波教会・近藤藤守師の手続きにより、虎谷吉兵衛師が名古屋布教を開始。
- 明治21年2月22日 幅下教会の設立年月日
-
「神道本局直轄金光教会講社事務取扱所設置」が承認され、金光教の名古屋布教が公的に認められたことにより「名古屋講社事務所(後の金光教幅下教会)」を開設。
この日を金光教幅下教会の設立年月日としている。 - 明治23年3月3日
-
虎谷師の後を受けて、谷村卯三郎師が名古屋布教を開始。
- 明治26年3月14日
-
「神道金光教会二等名古屋支所設置」が名古屋市長より認可され、「名古屋支所(後の金光教名古屋教会)」が開設される。
ここに虎谷師により設立された「名古屋講社事務所(後の金光教幅下教会)」が併置された。 - 明治28年2月18日
-
併置されていた「名古屋講社事務所」を分離、現在の幅下新道の地に移転。
これが金光教幅下教会の原点として今日に記録されている。 - 明治34年1月21日 幅下教会の布教年月日
-
石黒愛次郎師が金光教幅下教会の初代教会長に就任。
この日を幅下教会の布教開始の年月日としている。
初代教会長 石黒愛次郎師
初代教会長石黒愛次郎の入信は、谷村卯三郎師の名古屋布教開始より半年後の明治23年10月2日、兄の石黒鍵六と愛次郎が連れ立って、自分たち三人兄弟の肺結核平癒を願って名古屋教会に初参拝したことに始まる。
愛次郎はこのとき19歳であった。
しかしながら翌年春には兄と弟が相次いで死亡し、残った愛次郎の命も尽きんとするが、母かとの熱烈な信心と「神に身を捧げよ」との谷村師の取次に救われ、そのみさとしのままに名古屋教会に入所し修行生活に入った。
教師拝命の後は、磯野きん師(明治27年12月4日帰幽)の跡を受けて半田に布教。さらに東京、桑名の布教も志したが、明治34年、谷村師の御命のままに名古屋市西区新道の借家において妻・まつよ師と共に布教に従事することとなり、同年1月21日、幅下教会長を拝命する。幅下教会では、この日を布教記念日と定めている。
二代教会長 石黒政治郎師
明治40年12月4日に初代が36歳で帰幽した後は、弟子の渡辺政治郎(石黒家に入籍)が二代教会長として後を受け継いだ。
二代は、自らは中継ぎの御用にと任じつつも、積極的に布教の展開を計り、特に教師育成、出社布教に願いをかけると共に、講社布教、信徒の教徒化、組織化に力を注いだ。そして千人収容の教会会堂の建設を志し、その落成を目前にして昭和5年5月26日、「中継ぎの務めをおえて師の君の みもとに帰る われは嬉しき」との辞世を遺して、51歳の生涯を終えた。
三代教会長 石黒敏治師
三代教会長は、初代の遺児である石黒敏治が24歳で拝命。
初代、二代の夫人として内助に尽くした石黒まつよは教会布教の実質的中心として、さらに初代、二代の志の実現をはかり、昭和7年会堂新築、昭和12年には一等教会に昇等。出社教会も半田、笠松、城東、大曽根、御器所、今池、桜、平針を数えた。
石黒敏治は、若くして第四教区支部属員、金光教議会議員を歴任し、昭和16年には新教規のもとに本部教庁課員に任命されるなど将来を嘱望された。
四代教会長 石黒文子師と戦後復興
昭和19年から20年にかけては、まつよの帰幽、戦災による全施設の焼失、三代敏治のフィリピンでの戦死、敗戦という相つぐ試練に遭遇する。
こうした容易ならない状況の中で、石黒文子(四代教会長・三代敏治の妻)は、「このような難儀な時代にこそ教会の存在が大切」との信徒総代の切なる願いを受けて、菊井通四丁目の借家にとどまり戦後復興の願いをかける。昭和21年3月、古家を買い受け焼け跡に仮の広前を建設し、戦後布教の第一歩を始めた。
昭和26年、布教満五十年祭を迎えるにあたって広前を増築。手続き教会長をもって「真会」を結成。
昭和42年、教会会堂新築落成式を挙行。
昭和50年5月、石黒文子は教会長の職を辞任。石黒信彦が教会長を拝命した。
五代教会長 石黒信彦師
五代教会長、石黒信彦は、現代社会に布教する新たな教会像を求めて、信徒参加や家族勢信心を願い、生命祭(月毎の誕生をお礼する祭典)を仕えて日曜参拝を奨励するなど、さまざまな改革を積極的に進めた。そうした教会づくりは、布教八十年祭を通して根付いていった。
さらに、平成3年の布教九十年祭には、われひと共に助かる信心をめざして、人の助かりを祈る実践や社会活動にも寄与する行動に取り組み、九百名を超す参拝者を得た。
また、平成13年の布教百年祭は、会場の名古屋能楽堂の定員を上回る参拝者を得た。百年祭の翌年には隣地を取得し、境内地拡張のおかげを蒙った。その年、石黒信彦は教会長を辞し、石黒眞樹が教会長に就任した。
現教会長 石黒眞樹師
石黒眞樹は、初代教会長の信心を改めて頂くことに努め、平成19年には初代百年祭を仕えた。そして、その記念となる建物を建築する願いが起こり、境内地北側に記念館を新築する計画を立てた。折しも金光教名古屋センターが移転の候補地を求めており、教団・教区の合意によって記念館の一階にセンターを迎えることとなり、設計を変更して着工。翌21年2月、新施設でセンター業務が開始された。
ふりかえれば、昭和11年にほぼ同じ場所に第四教区支部事務所が独立家屋として建てられたが、昭和20年5月14日の空襲によって焼失してしまった。その後も不十分な復興の中、教務所は幅下教会内に設置されてきたが、狭隘(きょうあい)のため昭和25年に他教会に移転した。以来、教務施設が再び幅下に設置されたのは、59年ぶりのことである。これらは、教務的な働きを大切にした初代の信心姿勢を頂こうとする営みであった。
平成16年に、八事奥城の改修工事を行い、信奉者納骨塔を建立した。
平成29年には、およそ30年にわたって閉ざされていた出社、桜教会の新築復興を果たし、名古屋市南東部への布教拠点としての取り組みを始めている。
また、令和2年7月から令和6年5月にかけて、金光教本部の教務理事・布教部長を務めた。