あけましておめでとうございます。
皆さんは、「心を直す」ということはどういうことだと思いますか。そして、「心を磨く」というのはどうすることでしょうか。
幅下教会では、本年から、この「心直し・心磨き」を信心生活の柱にしていきたいと思います。でも、正月早々から、「あなた、心を直しなさい」なんて言われたら、「オレの心は壊れてなんかいない」と腹が立つ人は少なからずおられることでしょう。
「直す」とは、「今の状態を改める」ということですが、「正しいと思われるような状態にする」とか「正常な状態に元に戻す」という意味があるのです。
なぜ人間は不完全に出来ているの?
そもそも私たち人間は、神様が神様のご分霊を宿し込んで産み出してくださったのです。でも、生まれながらにして神様の分け霊をいただいておりながら、どうして心を直さねばならないような不完全にできているのでしょうか。
誰でも、本当に自分を見つめてみた時に、「ああ、私はここが足りないな」とか「至らないな」と分かるときがあります。自分では出来ているつもりでいても実は出来ていないことが多いことに気づきます。また、それぞれ性格が違います。気の長い人もいれば、いつも腹を立てている人もいます。悪いことをしてしまう人さえいます。誰もが完全体ではありません。それは、神様がせっかく全ての人間に授けてくださった分け御霊が大きく育っていないからです。だから、「心直し」は誰にも必要なことで、神様が願いを込めてくださった本来の健やかな状態に整え「直す」必要があるのです。
まつよ先生の心直し
幅下教会の初代教会長夫人である石黒まつよ先生が二十歳で入信したときの「心直し」の物語は、私たちのお手本です。 吉安まつよ(後の石黒まつよ先生)は明治三十二年六月十三日に、ご近所の玉田ひささんという方にお手引きされて初めて神様のことを知ります。そして翌日に玉田さんに連れられて、大須の名古屋教会に初めてお参りをいたします。ふじ子という三歳の姪が、顔が歪むほどの脳膜炎で生死をさまよう状態で、その平癒を願っての参拝でした。
ところが教会に入ってすぐに谷村卯三郎先生から、厳しい言葉を浴びせられたのです。「看板を見て入ってきたのか。ここは病院とは違うぞ。心直しの尊い神様のお広前じゃ。お前たちは治るような心ではない。ここで子供が死んでは神様のお顔に泥を塗ることになる。早う連れて帰れ!」と追い帰されてしまったのです。
まつよは高須(海津市)で戸長をしていた家の娘でしたから、人様からそんなに厳しく言われたことがなく、びっくりしてしまい、腹が立ってしょうがない。そこで、「なんとしても、あの爺さんの鼻をあかしてやりたい。おかげを受けずにはおくものか」とお社を買って帰るのです。ところが玉田さんは、「神様をお祀りしていないお社は、お雛様のような飾りに過ぎない。先生に頼んでご神璽をお祀りしてもらわないといけないんだよ」ということを後から教えるのです。「なんだ、それならば最初から言ってくれればいいのに」とまつよは言うのですが、しかたなくまた名古屋教会に参り、卯三郎先生の優しい懇切なみ教えを受けるのです。
まつよは、その時の「心直し」という教えを受けて、それまでの自分の心を改めようと励みます。身を飾ることも化粧も一切やめて、その代わりに「心を磨いてまいりましょう」と決心し、熱烈な信心生活を進めて、おかげを受けるのです。多くのご信者さんの中でも、まつよの信心ぶりは群を抜いており、「千人に一人の氏子」と認められていったそうです。
(つづく)
(幅下教会 教会だより『健』新年号より転載)

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