「神様の心直し・わたしの心磨き」(下)~石黒愛次郎先生の心直し~ 教会長 石黒眞樹

神様に心を直していただく
 修行には「する修行」と「させられる修行」があります。自分が進んでする修行はもちろん尊いですが、させられる修行は「神様がさせる」のですから、もっと尊いのです。なぜならば、そこに人間の考えを超越した神様のお計らいがあるからです。そして、自分の思いをはるかに超えた働きが心や身体に起こって、知らないうちに自分は変わっていた、という経験が生まれるのです。これが「神様が私の心を直してくださる」ということです。
 だから「心直しの信心」というよりも、「心直しをしてくださる神様を信心する」という表現がふさわしいと思います。そこで、幅下教会では、「神様の心直し・わたしの心磨き」と掲げてまいりたいと願っています。

「心直し・心磨き」をシリーズでお読みください
 今年の『健』1月号と『橋』2月号では、石黒まつよ先生の「心直し」について述べました。また、今回は、初代石黒愛次郎先生のお話です。
 愛次郎先生とまつよ先生は夫婦で幅下に布教に出られましたので、お二人とも幅下教会の開祖です。それぞれに入信時期は違いますが、同じ谷村卯三郎という師匠に助けられました。初代愛次郎先生も、「心直しの神様」に導かれて、心を磨いてこられたことでしょう。

初代先生に顕れた霊験
 明治二十四年のことです。肺結核という不治の病に冒されていた十九歳の愛次郎(後の初代先生)は、絶望の中にいました。お母様が熱心に春日井から大須の名古屋教会(片道十八キロ)に日参しても、兄も弟も三月、四月と続けて死んでしまったのですから、「信心しても甲斐がない。このまま自分は死ぬのだ」と荒んだ心になったに違いありません。
 ところが、病気で今にも死にそうな自分を「神様に捧げよ」と谷村卯三郎先生がおっしゃったのです。愛次郎はびっくりしました。何の力もない、病に伏せって血を吐いて死を待つだけの人間を、神様が必要となさるわけがない。だが「捧げよ」と言ってくださる。「天地金乃神様とはそんな凄い神様なのか」と驚いた。そのとき、心に「反転」が起こったのです。このまま何もなし得ず死んでしまうという絶望から、神様のご用が出来るかも知れないという明るい方に心の向きが変わった。そして、「そんな凄い神様ならば、すべてをお任せしてみよう」という気持ちになることができた。まるで、病床に差し込んだまばゆい陽光が畳に照り映えて、愛次郎の胸に飛び込んだようでした。その時から病気は快方に向かいました。
 このようにして、初代愛次郎先生は、身体のおかげをいただかれました。そして、持ち前の健やかなご性格を発揮され、多くの人を助ける身となりました。十一年間のご修行を経て、この幅下の地にご布教くださったのです。
 愛次郎先生の「心の反転」は、まさに「神様の心直し」でありました。愛次郎先生のように、自分の心の中に「神様と自分」との働き合いが起こると、思いもかけない奇跡のような変化がわが身に現れる。それが「神様の心直し」です。

「健やかな心」とは「喜んで生きる」こと
 愛次郎先生の「健やかな心」は、私たち信心する者の目標です。誰しも、それぞれの生き方に何らかの癖を持っています。徳を積んでいく良い生き方もあれば、逆にめぐりを積む生き方もあります。その癖は自分ではなかなか分かりません。信心して、悪い癖に気づかせて頂き、「健やかな心」に直してもらうのです。
 「健やかな心」とは、一言で言うと「喜んで生きる」ことです。たとえ喜べない困難の中にあっても、神様は常に助かってくれよという思いをかけてくださっている。そのみ思いを分からせていただくのです。それが私たちの助かりの道筋ではないでしょうか。それには、「世話になるすべてに礼を言う」稽古をしていくことです。

世話になるすべてに礼をいう稽古から
 お世話になる人や物や出来事すべてに、お礼を申し上げていく稽古の中で、自分のいのちを神様が生んでくださったということが分からされていく。天地金乃神様という大きな存在に出遭い、そのお力の中で生かされていることに気づく。すると、「神様を主語」にして、神様のみ心に適う生き方をさせていただくことが喜びとなっていきます。
 そうした「心磨き」の先に、神様がどんなところに連れて行ってくださるか、どんな思いもよらない景色を見せてくださるか、楽しみにしていくのです。

 ここから皆さんと「心直し・心磨き」を合い言葉に、信心の稽古をしてまいりましょう。


(幅下教会 教会だより『健』春季霊祭号より転載)

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