「神様の心直し・私の心磨き」(中) 教会長 石黒眞樹

神様が心を直してくださる
 名古屋教会谷村卯三郎先生は「心直しの尊い神様の広前じゃ」とおっしゃっています。「心直しの信心」という言葉ではありません。そこに注目すると、「心直しをする」の主語は、「私」ではなくて、「神様」なのだろうと私は思います。しかも、「心直しの尊い神様の広前」ということですから、「広前で神様が心を直してくださる」というような意味合いだろうと気づかされます。
 私は、並の人間には自分の努力だけで自分の心を直すというのは難しいと思っていますし、上から目線で人に「心を直せ」と強いるような間違いがあっては困るので、「心直し」についてあまり語ってきませんでした。
 しかし、昨年12月の「しんあい会の日(座談会)」において、ある方から、「幅下教会の信心の一言で表すと、やはりまつよ先生がいただかれた心直し・心磨きということではないでしょうか」という発言がありました。
 そこで、改めて考えてみますと、これまでの近代の社会には、人間の力に重きを置き過ぎた故の息苦しさがあったように感じます。努力が足らないからだと責められても、そもそも人間の力には限りがあり、自分の腕を頼りにしてもたかが知れているのです。

人間の難儀とは
 神前拝詞に、「神慈しみ知らで過ごせし無礼を詫び 改まりを祈りつつ」とあるように、神様があらゆる恵みを整えて生かそうとしてくださっているにも関わらず、そのことを知らず、自分の力で生きようとするところから人間の難儀が生まれます。ですから、「心直し」と聞いて、他人事だと思う人こそ危ういのです。「自分には直すところなど全くない」と言い切れるような人間はいないし、むしろ、その勘違いが難儀のもとになるのです。

神様も自分も
 私たちは皆そのような力のない存在ですから、まずは、お広前に身を置くのです。お取次を頂いて、神様にお任せさえすれば、神様が心を直してくださいます。そういう「お広前のお働き」があることは実にありがたいことなのです。
 前号で述べたように、石黒まつよ先生は参拝に励み、お広前のお働きを身に受けつつ、その一方で、「私は心を磨かしていただきましょう」と改まりの信心をします。このように、神様がしてくださる心直しと、自分自身の生活の中での「心磨き」の努力。この両方が働き合ったのです。

「余白」にこそ神様が
 信心をする者の究極の目的は、少しでも神様に近づき、神様のような心になっていくことです。誰しも、神様という大きな存在を前にすると、おのずと恐れ畏む気持ちが湧き出てきて、自分の力などとるに足らない小さなものだと分からされる、これが信仰というものです。神様は人間を完璧には作らず、信心して心を育てる「余白」をお与えくださったのだと思います。その「余白」にこそ、神様は現れてくださるのです。


(つづく)

(幅下教会 教会だより『橋』2月号より転載)

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